Source: Nikkei Online, 2023年7月27日 2:00
前回の定慶もそうであったように、興福寺は奈良仏師の母胎であった。鎌倉中期に活躍した「善派」の祖と考えられる善円(ぜんえん)(1197〜1258年)も、興福寺の仏師として姿をあらわした。
奈良国立博物館所蔵の十一面観音菩薩(ぼさつ)像は善円の最も早い時期の遺品である。修理時に像内銘と納入経巻が見出され、承久3年(1221年)の年紀と善円の名が確認された。アメリカ・アジアソサエティーには、これよりやや遅れる時期に善円が造った地蔵菩薩像が所蔵されているが、両像の銘記には興福寺僧の名や春日明神の加護を祈る文言がみえ、これらが興福寺内にあったものとわかる。また東京国立博物館所蔵の文殊菩薩像は銘記は確認されていないが、作風や大きさから十一面観音や地蔵と一具の善円作像とみられ、これらは春日神社の五神の本地仏5体のうちの3体らしい。いずれも瀟洒(しょうしゃ)な作風で、童子のような愛らしさは、善円初期の個性である。
やがて善円は奈良・西大寺を中興した傑僧叡尊の造像を担当するようになって、名を「善慶」と変えた。善派と呼ばれる仏師群が登場するのはそのころからである。(1221年、木造、金泥塗り・彩色・切金、玉眼、像高46.6センチ、奈良国立博物館蔵)